「衆生を救う、ほほえみの仏」

木喰〜もくじき〜とは

本来は、木「食」と書き、木食戒という戒律の一つでした。(五穀、塩味を食せず、寝具には寝ず、常に単衣でいることとされるが、仏教の正式な戒律ではなく詳細は不明)
今では、作者である木喰上人という人物と、木喰仏という仏像を指す名称として使われています。
木喰仏は、別名「微笑仏」とも呼ばれ、その造形は他に類を見ないもので、拝みたくなる仏像というより、親しみのわく仏像です。
庶民の苦しみを救うために彫られた仏像で、中には、子どもの遊び相手となり、大きくすり減り、顔がわからなくなったものや、落書きされてしまった木喰仏も今に残っています。

蔭凉寺の木喰仏

蔭凉寺の薬師観音

蔭凉寺の木喰仏

蔭涼寺の木喰仏は、上人が90歳の時に、清源寺で彫られたもので、薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像、日出大黒天像、自刻像の5体である。
当時、蔭涼庵(蔭涼寺の旧称)の尼僧が、上人が清源寺に滞在中によく面倒を見たので、お礼に刻んだとされており、薬師如来像は、その尼僧をモデルに彫ったとされる。
自刻像の裏には、日本二千ノ内と書かれているが、清源寺の釈迦牟尼仏像で千体の造仏を達成した後、新たに千体の造仏という願を起こしたことが伺える。

日本二千ノ内 木喰自刻像 蔭凉寺

日本二千ノ内 木喰自刻像 蔭凉寺

木喰上人について

江戸時代の遊行僧。
56歳の時に、日本全国を遊行するという大願を起こし、93歳で亡くなるまで、全国を遊行して仏像を彫り続けた。
北は北海道から、南は鹿児島まで遊行し、現存する仏像の数はなんと721体にもなる。(平成30年7月現在)
上人は全国を遊行し、仏像を彫り続ける理由を、清源寺の和尚に以下のように語ったとされる
「我廻邦して望むものは他になし、神仏に一千像を彫刻し及び加持を修して以て衆生の病苦を救わんと欲すのみなり」
詳細は略歴を参照

木喰上人略歴

1歳 1718年 山梨県丸畑に誕生
14歳 江戸に出て流浪の生活
22歳 出家 神奈川県伊勢原市の権現様を詣でた時、宿で隣り合わせた真言宗の僧侶によって修行を始める
45歳 茨城県羅漢寺住職木喰海上人から木食戒律を受け、日本廻国の願を立てる。
56歳 2月18日伊勢原市を出発、伊豆半島を一周して、関東から東北に周る
61歳 6月5日青森県に至る
62歳 北海道江差にて子安地蔵建立
63歳 9月21日より五ヶ月栃木県に逗留し素朴な仏像を製作する
64歳 佐渡ヶ島
68歳 5月15日佐渡を離れて新潟へ4ヶ月滞在して故郷に帰る
70歳 兵庫県西宮に4月15日到着し、1ヶ月後四国88箇所を参拝、翌年3月12日九州佐賀につく、ここで7年間過ごす(日向の国分寺)
74歳 国分寺炎上、再建の願を立てる
78歳 日向を立ち、長崎に至る
80歳 国分寺を発ち山口県下に入り造仏活動に専念
81歳 山陰〜山陽道に出て、各地で造仏
82歳 四国、大阪、伊勢、静岡
83歳 丸畑に帰り四国堂建立と88体の仏像建立の願を立てる
85歳 四国堂完成
86歳 信州、越後を廻り新潟に3年滞在。多数の仏像を残す。
89歳 長野県諏訪に入り、故郷に帰る
89歳 10月清源寺に入り、16羅漢を造る時に霊夢により「神通光明、妙満仙人」と改名する
90歳 2月12〜17日蔭涼寺に伝わる薬師如来、日光、月光菩薩像を造る
91歳 長野善光寺で阿弥陀如来座像を描く
93歳 6月5日 没す

参考文献
五来重, 円空と木喰, 株式会社淡交社, 平成九年八月二十八日初版発行
五来重, 微笑仏 木喰の境涯, 株式会社淡交社, 昭和41年12月20日初版発行
監修 小島梯次, 生誕三百年 木喰展 〜故郷へ還る、微笑み〜, 身延町, 2018年
編集 高橋洋二, 別冊 太陽「木喰の微笑仏」, 株式会社平凡社, 1983年8月12日発行

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